No.5 洞泉寺の五部大乗経2021.1.29 訂正2021.2.21 トップページへ戻る
お詫びと訂正
当初このページでは旧阿寺村内の山頂近く、鴨野という小さな集落にある六所大明神、現在の六所神社のことを、現在の阿寺部落にある六柱神社と混同して記載していました。間違いをお詫びするとともに訂正させてください。
※訂正箇所は赤字で表示いたします。
五部大乗経の記載/浜松市 ホームページより
五部大乗経は、大方広仏華厳経(だいほうこうぶつけごんきょう)、大般涅槃経(だいはつねはんきょう)、大方等大集経(だいほうとうだいしつきょう)、大品般若経(だいぼんはんにゃきょう)、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の5つからなり、全部で200巻あります。
洞泉寺の五部大乗経は、199巻が現存しています。経典の墨書銘によると、南北朝時代の応安7年(1374)から数か年の間に書写され、各地を転々として阿寺村へ奉納されたことが分かります。
五部大乗経がほぼ完全な形で残っているのは、県内では珍しく、しかも地方の信仰を知るうえでも貴重な史料です。損傷が激しいため、平成9年度から5年間かけ、京都国立博物館文化財保存修理所墨申堂で修理されました。
「中世の地域社会と仏教 静岡大学人文社会科学部研究叢書」(思文閣出版 湯之上 隆 著)にもう少し詳しい経緯が書かれています。その大要を述べてみます。
本経は漆塗りの二〇の経箱に収められ、さらにそれらが二つの経櫃に収納されている。経典ごとの帖数は次の通りである。
大方広仏華厳経 六〇帖
(結経)梵網経 二帖
大方等大集経 三〇帖
大方等日蔵経 九帖(巻一欠本)
大方等月蔵経 一〇帖
(結経)菩薩瓔珞本業経 二帖
摩訶般若波羅蜜経 三〇帖
(結経)仁王護国般若波羅蜜経 二帖
妙法蓮華経 八帖
(開経)無量義経 一帖
(結経)仏説観普賢菩薩行法経 一帖
大般涅槃経 四〇帖
大般涅槃経後分 二帖
(開経)仏遺教経 一帖
(拮経)仏説像法決疑経 一帖
※洞泉寺の五部大乗経は現在、浜松市天竜区大谷の内山真龍資料館に保管されています。閲覧と撮影を希望しましたが、調査研究目的でないと見られないとのことでした。
代わりに、『日本古典籍データセット』(国文学研究資料館等所蔵)よりダウンロードした大方広仏華厳経の一部の画像を表示します。
本経の書写は奥書によると、応安七年(1373)5月中旬から康暦元年(1379)12月15日にかけてのおよそ五年半を要して行われた。
本経は美濃国新長谷寺とその周辺で書写されたものと考えてよい。
本経は観宗が両親のために発願し、施主となって書写されたものであった。書写にあたったのは、加賀国出身の実舜を中心に、祐尊・澄賢らである。
本経は、応永十二年(1405)には美濃国を離れて、大和国吉野郡黒滝郷(現、奈良県吉野郡黒滝村)河分大明神に移された。大香により黒滝郷河分大明神に奉納され、経箱と経櫃もこの時に作られたことがわかる。
河分大明神の神宮寺は南光寺(神仏分離のさい廃寺となる)であったから、大香はその僧侶であった可能性がある。
(この後)本経は京都三条坊門烏丸の長泊寺に移された。
こののち本経がたどりついた場所は、遠江国豊田郡阿寺村の六所大明神であった。大集経巻一の奥書に「遠州阿多古之内阿寺村/陸所之大明神御宝前/本願主玉岩而已」、摩訶般若経巻一の奥書に「願主玉岩/遠州阿多古之内阿寺村/六所大明神御宝前」と記されているように、時期を明示する記載はみられないものの、玉岩が願主となって阿寺村六所大明神に奉納したことがわかる。
玉岩は六所大明神に程近い同じ阿寺村の洞泉寺過去帳に、「前住方広当山八世中興玉岩和尚泉堂」とみえる僧侶と考えられ、元亀三年(1572)三月三日に没した七世の凰山のあとをうけて八世住持となり、荒廃していた洞泉寺を復興して、慶長十一年(1606)七月二八日に没した。この記述にしたがえば、本経が玉岩によって六所大明神に奉納されたのは、元亀三年(1572)三月から慶長十一年(1606)七月にかけての時期となる。
旧阿寺村内の山頂付近、遠州平野を一望できる見晴らしのいい斜面に鴨野と言う小さな集落がある。阿寺村/六所大明神とはこの鴨野にある六所大明神、現在の六所神社のことである。
鴨野には当初、洞泉寺があったのですが、五部大乗経がなぜ洞泉寺ではなく、六所大明神に奉納されたかは不明です。
鴨野より遠州平野の遠望
鴨野の六所神社
洞泉寺は初め天台宗で鴨野にあった。長享元年(1487)大火により焼失し、引佐郡奥山(現、浜松市北区引佐町奥山)に方広寺を開いた無文元選の弟子源翁によって再興され、以後臨済宗に改められたという。そして、いつの時代か不明だが山の下の阿寺に移っている。
鴨野の六所大明神の創建については明らかでないが永正十五年(1518)六月には鰐口が奉納されているので、永正十五年(1518)には存在していたと思われる。六所神社鰐口の記載/浜松市ホームページより
本経は明治初年の神仏分離のさい、六所大明神から洞泉寺に移されたとみられる。この時洞泉寺は無住になっており、以後、本経は檀家の人々の努力によって今日まで伝えられている。
阿寺 洞泉寺
洞泉寺本堂 地元の方たちが清掃に来られた時に出会い、入らせてもらった時の様子2019.12.8
境内の石仏
こうして南北朝時代に美濃国新長谷寺とその周辺で書写されたと考えられる本経は、その後、僧俗さまざまな人々の信仰を集めながら、大和国黒滝郷河分大明神・京都長泊寺を経で、遠江国六所大明神へ移され、さらに洞泉寺の所蔵に帰して、ここにようやく故地を離れた流転を終えることになった。天竜市指定文化財に指定された本経は、平成九年(1997七)五月から五か年をかけて墨申堂によって修理された。
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