先人たちの思い、遠州の記憶 トップページへ戻る
No.9 天災に消え去った浜名の橋と橋本宿 2022.3.25
1.浜名の橋の絵図
浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 今切変遷図の7、鎌倉時代、浜名橋があった頃の浜名湖
姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館保管 展示横には以下の解説文が設置されている。
「細江神社の神官、澤木家に伝えられた絵図である。角避比古(つのさくひこ)の神が閉塞を司る浜名川は、浜名湖から遠州灘に流れ出る川である。ところが15世紀から16世紀にかけて、度度重なる地震、津波、高潮により河口ふさがれ、今切れができた。その後も、高潮や宝永地震の津波により、今切れは姿を変え、舞阪、新居の渡船場と関所の位置も変わってゆく様子が、一枚一枚めくってゆくと描かれている。」、
濵名橋付近拡大図 「帯湊」[「シホハマ」「井ノハナ坂」「モミジ寺(紅葉寺)」「天神」「キョウオンジ(教恩寺)」「トウフクジ(東福寺)」「ヨリトモゴテン」「北山」「源太山」「アライ」「小松茶屋」「日カサキ」、、、等の書き込みが多数あり。
古代、浜名湖の南には、天竜川からの堆積物による長い砂州が東から西へ伸びていました。浜名湖からの水は西に向かう浜名川を経て、今の湖西市松山のあたりの「帯湊(おびのみなと)」というところで太平洋へ流れ出ていたと言い伝えられています。そして、その浜名川には浜名の橋が架けられました。『日本三大実録』の記載によると、長さ56丈(166.88m)、幅1丈3尺(3.87m)、高さ1丈6尺(4.77m)と当時としては破格の大きさの橋でした。
旧新居町発行の『わがまち あらい』(1975年)には、以下のように書かれています。
「遠江国浜名橋は日本三大橋の一つとして、大同年間(806~809)浜名川に架けられた日本第二の長橋であった。この橋は京都から派遣された藤原大娘蔵人寄家ら一族によって、工事が進められた。しかし、その後何回もの災害でこの橋は架けかえられ、貞観4年(862)、元慶8年(880)など11回も架け替え修理をして、交通路の確保をはかった。」
「その後、都市として発達した京都と、開府した鎌倉が地方都市として発達し、その往来は日に日に盛んになっていった。」「『いざ鎌倉へという時に多くの武士が馳せ参ずるための道』でもあった。」
「建久元年(1190)10月18日源頼朝が上洛の途次橋本に滞在、逗留5日(推定)に及び、遊女群参して沢山の贈物を献じた。橋本の花香町という色町は、浜名橋の東、頼朝御殿の北にあり、橋のたもとが橋本駅の中心であった。」
「北山千軒、橋本千軒、日ケ崎千軒と伝えられるほどの繁盛ぶりが飯田昌秀の書いた橋本古事(新居町史資料巻二)にあるが、その後の旅行記『海道記』(貞応2年1233)、『東関紀行』(仁治3年1242)。『十六夜日記』(弘安2年1279)などに、浜名橋や橋本宿の往時をしのぶことができる。」
※北山は拡大図の「橋本駅」の上の「北山」、日ケ崎は濵名橋の南東の「日カサキ」と思われる。
浜名橋図 鱸 有鷹(すずき ありたか) 泥絵46cm×167cm 北側よりの絵図 新居関所資料館所蔵 同館許可にて撮影・掲載
新居関所資料館特別展「鱸 有飛・有鷹展」図録には以下のように紹介されています。 ※鱸 有鷹は新居宿在住の江戸時代の国学者、画家
「浜名橋は,今切ができる以前、浜名湖と太平洋をつなぐ唯一の流路となっていた浜名川に架けられた橋で、貞観四年(862)につくられた。本図はその浜名橋の想像図である。
上部に『更級日記』『扶桑略記』『夫木和歌集』等の中の浜名橋に関する部分を有鷹自らが写した切紙が貼付されている。」
新居関所・新居関所資料館
2.浜名の橋の歌、文学
浜名の橋については古来、多くの人々により和歌、紀行文が作られています。そのいくつかを紹介しましょう。
東海道沿い 前大納言為家・阿佛尼歌碑
前大納言為家
風わたる 濱名の橋の 夕しほに さされてのぼる あまの釣舟
阿佛尼
わがためや 浪もたかしの 浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで
傍らの銘盤には以下の記載あり
「藤原為家(1198~1275)
鎌倉中期の歌人で定家の二男、初め朝廷に仕え、父の没後家系と学統を継いだ。
承久の乱後、『千首和歌』で歌人として認められ、『続後撰和歌集』 『続古今和歌集』の勅撰集を始め、多くの私家集を編んだ。歌風は温和、平淡。この歌は『続古今和歌集』巻第十九に収められている。
阿佛尼( ? ~1283)
朝廷に仕えた後、藤原為家の継室となり、夫の没後出家し、鎌倉下向の折、『十六夜日記』をなした。この歌は同日記にあり、当時のこの辺りを豊かな感性でとらえている。
よって為家・阿佛尼の比翼の歌碑とした。
新居町教育委員会」
為家の歌で注目されるのは、「夕しほに さされてのぼる あまの釣舟」との表現です。夕潮とは夕方の満ち潮のことで、その潮に流され、釣り船が上流に流されていく様子を表しています。と言うことは、、、浜名川は満潮時かなりの勢いで逆流している。つまり、浜名湖は完全な淡水湖ではなく、海水が流れ込む汽水湖であったと思われます。ただし、今よりは塩分濃度は低かったのではないかと個人的には推測しています。
阿仏尼の歌もなかなか面白い歌で、橋本の北側に連なる高師山にかけて「浪もたかし」と言い。その山裾(やますそ)=山の袖(そで)にある帯湊(おびのみなと)にかけて、「袖の湊の 浪はやすまで」と表現しています。小学館『中世日記紀行集』の岩佐美代子氏現代訳では「袖の湊」とは「袖に涙があふれるさまの比喩」とされています。他の多くの現代訳でもそう書かれています。しかし、私は、直接的には、河口付近で浜名川からの流れと打ち寄せる波がぶつかり合って波立っている様子を描いている。そして同時に、これからの苦難を想像した時思わず涙があふれたことも表現しているのではないかと思います。
現在の今切れ口に立てば、海水が湖内に流入する上げ潮とその流れに乗る釣り船の流し釣り、反対に、湖外へ出る下げ潮が太平洋の波にぶつかる様子とも日常的に目にします。非日常で訪れた名歌人、おふたりは瞬間であっても、それぞれ浜名川の自然をしっかり見つめ、感じとって歌にしているんだなあと感心しています。 ※なお、下げ潮でも流し釣りは行われます。
おふたりは、それぞれ別の時期に浜名の橋を訪れて歌を作っています。そのふたりの歌を一つの歌碑にして、、、新居町教育委員会は粋なことをされたものだと思います。おまけに、この歌碑は東海道沿いで、裏が高師山、そして前は帯湊を見渡す位置に建てられています。そのころであれば、まさに風光明媚な景勝地の歌碑であったでしょう。GOOD
JOB ! と言いたいです。
阿仏尼は、元は安嘉門院四条と言われる女房で、恋多き女流歌人として名をはせた才女だった。為家の後妻となり為相、為守を産む。為家の死後、我が子の財産を守るため、相続の訴訟の意を決して鎌倉へ下向した。その旅を綴ったのが『十六夜日記』です。この訴訟は阿仏尼の死後30年の1313年最終判決で為相の勝ちとなりました。為相から和歌の家、冷泉家が始まっているので、阿仏尼は冷泉家の生みの親とも言えるののではないでしょうか。そうした人間ドラマも秘めてこの歌碑は立っています。
浜名川親水公園 藤原定家歌碑
橋 辺 霞
影たえて 下ゆく水も かすみけり はまなの橋の 春の夕暮
定家
銘盤には以下の記載あり
「藤原定家(1162-1241)
鎌倉時代の歌人。父俊成のもとに、優艶巧緻な歌風を残す。『新古今和歌集・新勅撰和歌集』の撰者、また、『小倉百人一首』の原典撰者でもある。日記『明月記』など著作も多く、中世期の歌聖とも言われた。
この歌は家集『拾遺愚草』に収められ、歌枕浜名の橋を折り入れている。
新居町教育委員会」
為家の父、藤原定家の歌碑です。夕暮れになり、行きかう人影も絶えて、浜名の橋も浜名川も春霞に包まれている遠景を描いたのでしょうか。静寂なしみじみとした世界ですが、、、そのことで逆に昼間の浜名の橋の賑わいを思い起こさせるようなテクニックを感じてしまいます。
愛宕山山頂 源頼朝歌碑
都よりあづまへかへり下りて後 前大僧正慈鎭のもとへよみて つかわしける歌の中に
前右大将頼朝
かへる波 君にとのみぞ ことづてし 濵名の橋の 夕暮れの空
銘盤には以下の記載あり
「源頼朝(1147~1199)
建久三年、征夷大将軍に任ぜられ鎌倉幕府を開き武家政治を始めた。
この歌は初めての上洛から鎌倉への帰路、当所の橋本に立ち寄った時のものと思われる。
『愚管抄』の筆者慈円(諡号慈鎮)に送った歌で『続後拾遺和歌集』に収められている。
町内には頼朝ゆかりの『風炉の井』や『紅葉寺』などの史跡がある。
新居町教育委員会」
この歌碑は橋本の北、標高40メートルほどの愛宕山の山頂に立てられています。眼下に浜名川にかかる浜名の橋が見える位置です。
天台座主、歌人でもあった慈円に、源頼朝が実際会ったのは建久6年の上洛の時、3月から5月だけだったようです、その間、日々和歌の贈答をしていたとのことです。政治と宗教界の両トップであり、文化人でもある二人は、よほどの相和するものをお互いに感じたと思われます。その後も二人の交流は頼朝の突然の死まで続き、慈円の私家集『拾玉集』には、頼朝が送った歌が37首も収められているとのことです。
頼朝は、浜名の橋の美しい夕暮れを眺めながら、生涯で最も親しい人への想いを心に刻んだのでしょうか。 ※多賀宗隼氏『慈円 人物叢書』をヒントに想像して書いてみました。
湖西市立新居図書館 賀茂真淵歌碑
冬のころ遠きところをおもふ歌を人々よみ待るに
ふみわけて 今もみてしか 遠つあふみ 浜名のはしに ふれる初ゆき
真淵
銘盤には以下の記載あり
「賀茂真淵(1967-1769)
江戸時代中期の国学者、歌人・元禄十年遠江国伊場村の神職の家に生まれる。本姓は岡部。通称は庄助、淵満とも称した。荷田春満に国学を学び江戸へ出て学塾を開く。
古事記、万葉集など古典の研究につとめ歌人としても優れた歌を多く残した。門人には本居宣長、平賀源内、塙保己一ほか、当町の鱸有飛・有鷹親子がいる。
新居町教育委員会」
江戸にて、「遠きところをおもふ歌」をテーマに歌会をしていたのでしょうか。その時真淵は、、、故郷の遠江の風景、それもなぜか、すでに消え去った浜名の橋を頭の中に描きながら歌った。それは真淵の記憶の中に数々の浜名の橋の歌が焼き付いていたからではないか。そんなふうに思えます。
東海道名所図絵 復刻版 上巻
秋里籬島著『東海道名所圖會』寛政9年(1797年)では、約300年前に消滅した浜名の橋も名所として取り上げ、古来読み伝られてきた浜名の橋の歌、紀行文も紹介しています。
『遠江道之記』
濵名の橋のもとにとまりて月のいとおもしろきを見て
うつくしもて心しつかに見るべきをうたても波の月さわぐかな 増基法師
『夫木和歌抄』
濵名川湊はるかに見わたせば松原めぐる海士(あま)のつり舟 中務卿
『夫木和歌抄』
濵名河夕汐さむき山おろしに高師の沖もあれまさるなり 小宰相
『拾遺和歌集』
汐みてるほどに行かふ旅人や浜名のはしと名付け初めけん 平 兼盛
『金葉和歌集』
白波のたちわたるかと見ゆるかな濵名のはしにふれるしらゆき 前齋藤院尾張
『新勅撰和歌集』
澄みわたる心もきよし白妙のはまなのはしの秋の夜の月 藤原光俊
『續後撰和歌集』
朝ぼらけ濵名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人 前内大臣家長
『續古今和歌集』
たかし山夕越えくれて麓なる濵名の橋を月にみるかな 北条政村
『續拾遺和歌集』
はまなのはしを過ぐるとてよみ侍る
立ちまよふ湊の霧の明けがたに松原見えて月ぞのこれる 宗尊親王
『風雅和歌集』
うちわたす濵名の橋の曙に一むらくもる松のうす霧 大江廣秀
『新後拾遺和歌集』
いとどなほ入海遠くなりにけりはまなの橋の五月雨の頃 津守國道
『拾遺愚草』
霧はるる濵名の橋のたえだえにあらはれわたる松のむら立 藤原定家
『十六夜日記』
はまなのはしより見わたせば、かもめといふ鳥、いとおほくとびちがひて、水のそこへもいる、岩のうへにもゐたり。
かもめゐるすさきの岩もよそならず波のかずこそ袖に見なれて
『東関紀行』
橋本といふ所に行きつきぬれば、聞きわたりしかひ有りて、景色いと心すごし。南には潮海あり。漁舟波に浮ぶ。北には湖水あり。人家岸につらなれり。そのあひだに洲崎遠くさし出でて、松きびしくおひつゞき、嵐しきりにむせぶ。松のひびき、波の音、いづれと聞きわきがたし。行く人心をいたましめ、とまるたぐひ夢を覚まさずといふ事なし。湖にわたせる橋を濱名となづく。古き名所なり。朝たつ雲のなごり、いづくよりもこころぼそし。
行きとまる旅ねはいつもかはらねどわきて濱名の橋ぞすぎうき 源親行
家集
かへり見る都のかたは遠津海の濵名の橋のわたりまできぬ 参議雅經
『夫木和歌抄』
沖津島高師の濱の夕がすみいつか濵名の橋も見ゆらん 権中納言長房
『夫木和歌抄』
都にて聞きわたりしにかわらぬは濵名の橋の松のむら立 大蔵卿為房
太田亮著『日本國誌資料叢書 遠江』(1924-27)にも、古来歌われてきた浜名の橋の歌を紹介しています。
『夫木和歌抄』
朝霧に濵名の橋もと絶して雲井をわたる秋の雁がね 藤原有家
『最勝四天皇院名所御障子和歌』
霧はるる濵名の橋の絶絶にあらはれわたる松のしき波 藤原定家
『富士道道記』
遠江をあさ渡りする舟人にとへば濵名の橋もしら波 里村紹巴
『重之家集』
水のうえの濵名の橋もやけにけりうち消す浪やより来ざりけむ 源重之
『堀川百首』
東路のはまなの橋のはし柱なみは立てどもわたらざりけり 源師頼
『新和歌集』
立ちわたる濵名の橋の朝霞見てすぎがたし春のけしきは 宇都宮時朝
『歌枕名寄』
駒通ふ濵名の橋の浦風に音づれかはす若磯の松 鴨長明
『富士紀行』
濵名川よるみつ汐の跡なれや渚に見ゆる海士(あま)の小舟は 飛鳥井雅世
これらの他にも浜名の橋の歌はまだまだたくさんあります。私が個人的に良いなあと思った歌は
恋しくは浜名の橋をいでてみよしたゆく水に影やうつると よみ人しらず 『古今六帖』
3.明応の地震、津波などの天災と今切れ口の決壊、浜名の橋の消滅、
今切変遷図の6、戦国時代、今切が出来た頃
東海の名所、浜名の橋と橋本宿ですが、地震と津波によって甚大な被害を受け消滅してしまいました。その経緯について、旧新居町発行の『わがまち あらい』(1975年)では以下のように書かれています。
「応永12年(1405)、文明7年(1475)の津波で遠州灘の堤が切れはじめ、明応7年(1498)の大地震、津波によって今までの浜名川の流出口は全くふさがれ、別のところに流出口が生ずる結果となった。明応7年の地震、津波は東海地方の沿岸全域にわたって被害をおよぼし、それから12年後の永正7年(1510)の大津波で、明応以来の弱い堤防は全く破れて海への新しいつながり口ができ、浜名湖はついに潮の海になってしまった。これが『今切』である。」
江戸時代後期、飯田武兵衛昌秀の『新居橋本古事』(新居町史資料編二)には以下のように書かれてます。
「今切れなることは、永正八年八月廿七日又明応八年巳未六月十日トモ、高波の大変有り、前沢西荒波切り込み、湖水一面になる、橋本の駅、日ヶ崎、猪鼻、浜名橋海辺の民家残らず流失す、溺死す、海辺の田畑凡壱万五千余白砂となる、」
遠州地方の被害の様子が遠江国佐野郡寺田郷(現掛川市)の曹洞宗円通院住職による『円通松堂禅師語録』に書かれています。原文の漢文を読み下したものが『静岡県史、別編2、自然災害編』にあります。
「(明応7年)同月(8月)二十五日の辰の刻(午前7~9時)、忽然として大地震動し、万民肝を喪う。或いは地に倒れて匍匐し、或いは柱を抱いて滅を待つ。老翁は合掌し仏名を念じ、幼弱は叫喚して父母を号(よ)ぶ。平地は破裂して立ち三五尺(約1mから1.5m)の波濤を涌出し、巨岳は分破して忽に千仞余の懸崖を崩し奔(はしら)しむ。従前の風雨に破落せる残家残屋を一等に震卻(しんきゃく)して半ば地中にに陥墜す。中に就いて最も憐れむべきは旅泊の海辺・漁浦の市店に聚る遠国の商人・群る近隣の買客・八宗の仏民寺院の僧坊に架す、並びに歌舞伎楽遊燕の輩、一朝にして時刻に渉らず(いくらの時間もかからずという意味か?)、洪濤天に滔(はびこ)りて来り、一弾指頃にして地を掃いて総て巻き去る。」
それから500年ほど後の今、浜名の橋の推定地には浜名橋跡の石碑が立っているのみです。
浜名橋跡の石碑
浜名橋跡付近の現在の浜名川 往時は浜名湖の水が一手に流れ出る大きな川でしたが、現在は川幅13m程度の小さな排水路です