加茂 健さんコンテンツ
ドビュッシー 夢想 Debussy Reverie
ドビュッシー 月の光 Debussy Clair de Lune
シューベルト即興曲 OP90-3 schubert Impromptus
Takeshi Kamo-Piano CD
故加茂健さんのピアノ演奏選集のCDを、ご遺族の方々が作られました。すばらしいCDですので、ご遺族の加茂健彦様のご了解のうえでご紹介いたします。
加茂健さんは昭和11年ベルリンオリンピック大会サッカー代表選手で、強豪スウェーデンに逆転勝利した「ベルリンの奇跡」のメンバーでした。詳しくは「杉村画廊来賓室」「加茂健作品集」の「加茂健・パソコン画作品集 (28)」の「海を渡ったチャレンジャー」をご覧ください。
その加茂健さんは2004年3月26日逝去されました。私がより親しくお話するようになったのは、晩年になってからですが、それでも健さんのチャレンジ精神に満ちた生き方に少しですが触れることができました。
80歳からパソコン画像の趣味を始め、また、様々な年齢の方たちと電子メールでの交流を深め、86歳でミニコンサートを開き、88歳で入退院を繰り返すなかで、その回復のリハビリテーションの一環で水彩画を描き始めるなど、、、そのチャレンジ精神に感服しています。
加茂健さん「新宿御苑の枝垂れ桜」
加茂健さん自伝「私の人生」(平成10年)より
「1.青春期」 ~サッカーに触れた部分のいくつか~
「小学校でサッカーを始める」より
私がサッカーに興味を持つようになったのは小学校4年生の頃だったと思う。私が学んだのは浜松師範学校付属小学校で、体操教師の村松先生がサッカー好きで、体操の時間には必ずといってよい程サッカーをやっていたので、いつの間にかサッカーが好きになってしまったらしい。昭和2年3月小学校を卒業し、4月1日県立浜松第一中学校へ入学した。
入学と同時に躊躇することなく好きだったサッカー部に入った。浜一中のサッカー部が創立されたのは大正14年のことで、当時のサッカーは極めて乱暴であり、練習方法はスパルタ式の荒々しいものであった。サッカー部に入って正選手になったのは3年の時だったと思う、でも、先輩の熱心な指導のもとにチーム力は急速に進歩していた。5年生のときサッカーの主将となった。8月半ば夏の中部中学大会で準決勝で愛知一師を2-1、決勝戦で刈谷中学を3-0で破って初優勝した。浜一中サッカー部創立7年目であった。引き続いて、東京で開催された東部中学大会の出場権を得て勇躍上京順調に勝ち進んだが、準決勝で湘南中学に0-1で敗れ涙を飲む。
この大会の優勝は志太中学であった。そのときのCF松永君、CH笹野君は我々と共にオリンピック選手に選ばれて、ベルリンに行くこととなった。
「早稲田へ入学」より
昭和7年3月浜一中を卒業して、4月6日早稲田第一高等学院へ入学する。4月早々に取り敢えず保男兄の下宿に落ち着く。この下宿は不忍の池の北を通って早稲田に行く市電の途中駅根津の駅近くにあった素人下宿で、サラリーマンらしい男性が二人いた。勉強が忙しかったせいか、保ちゃんと下宿で一緒になったことは殆どない。
入学早々の春、堀江先輩に誘われて一度東伏見のサッカー場に行った事がある。その時の主将は井出多米夫氏で、その練習ぶりは浜一中より遥かに激しく、サッカー部員よりボールの数の方が多かったと思う。ボールが遊んでいると言って怒られる始末で、あまりの激しい練習ぶりに恐れをなし、また勉強も忙しかったので、2~3回グランドに行ってボールを蹴ったけれど直ぐに止めてしまった。しかし、秋になって涼しくなるとそぞろに又ボールが蹴りたくなって、
今度こそ続けてサッカーをやろうと決心して正式に部員となった。正月のインターハイにも出場するようになり、以後サッカーに熱を入れるようになった。
「保男兄の突然死」より
昭和8年4月に入って、正五が早稲田の入学試験に合格して牧師館の3階で一緒に生活する事となった。正五もサッカー部に入り、共にボールを蹴ることとなった。昭和11年ベルリンで開催されたオリンピックに、日本のサッカーも参加することとなり、その代表選手に正五と共に選ばれる。この秋に優勝した早稲田が主力であった。
「オリンピック出場」より
昭和11年6月ベルリンオリンピックに参加する日本選手団一行は全員揃って6月20日東京を出発し、シベリヤ経由モスクワを経てベルリンへ到着したのは7月の2日であった。ベルリン到着後選手団一行は直ちにオリンピック村に入った。我々サッカーチームは専用のサッカーグランド2面を借りて(同じ所にサッカーの専用芝生グランドが何と六面あった)、8月緒戦まで約1ヶ月練習を重ねた。当地のクラブ・チームと3回練習試合を行ったが何れも小差であるが負けている。
オリンピックの第1戦は優勝候補と言われた北欧の強豪スウェーデンであった。誰もがスウェーデンが勝つものと思っていた。ところが予想を覆して、前半0-2の劣勢から日本が後半3-0と逆転したのだから、皆驚いたは無理もない。翌日の新聞にはそのセンセイショナルな記事が報道されているが、その独逸語の新聞は現在でも大事に写真帳に貼って保管してある。
2回戦はイタリーであったが、スウェーデン戦で精力を使い果たした我が日本チーム前半こそ0-2で何とか持ち堪えたものの、後半は0-6と大量得点を許し大敗をきっしてしまった。しかしイタリーが本大会で優勝したのだから、又全力をつくした後のことであり悔いはなかった。寧ろ満足したと言った方が良い。
※ベルリン オリンピック大会スウェーデン戦の勝利は「ベルリンの奇跡」と呼ばれました。
「随筆 2.趣味のピアノ」から
1.覚え始め
私がピアノに興味を抱く様になったのは、幼稚園に通っていた頃ではないかと思う。松城の新築家屋の一番奥の1階の8畳間に、ヤマハのアップライトピアノが置いてあり、姉様方や兄保ちゃんが弾いているのを聞いて、何時の間にか真似をして覚えたものらしい。
楽譜の読み方も、誰に教えて貰ったのか記憶に無い。姉様方が弾いていた曲の楽譜を引っ張り出して、何ぺ一ジを弾いていたのか、耳に残った曲を真似をして弾きながら、楽譜に書かれたオタマジャクシのような符号と突き合わせて、いつの間にか覚えてしまったらしい。
小学生1年から、6年まで毎年秋に行われた音楽会には何時もピアノの独奏をさせられた。指導してくれたのは音楽の中島先生であった。3年の時は女の子と連弾をしたように覚えている。中学生になった秋にも、特別出演と言うことで、秋の音楽会に出た記憶がある。その時の先生は誠心女子学園の中村鹿之助先生であった。しかし当時サッカーに夢中になり始めた頃で、中村先生にピアノを習った期間はほんの短い間だったと思う。
中学生時代は自宅にピアノがあったので、好きな時に好きなだけ弾くことが出来たが、早稲田に進学してからは暫くの間、早稲田の市電終点にあったピアノ販売店に交渉して、店内に置いてあったグランド・ピアノを時間借りして弾いていた。
2.ヘニガー夫人に教わる
長野弥氏に御世話になってからのことである。中央会堂の2階には立派なグランドピアノが置いてあったが、このピアノは教会の宣教師の奥さんであるヘニガー夫人の独占みたいなもので、素人にはふれさせてくれなかった。ピアノが弾きたくてたまらなかった私は1階のアップライトを弾くより他なかった。ところがふとした切っ掛けから、ヘニガー夫人にピアノを習うこととなった。ヘニガーさんの住宅は小石川の高台にあった。
1週間に1回の割合で約1年位続いたと思う。ヘニガー夫人の教え方は、なかなか上手で私のピアノ技術は、この1年間で覚えたものが、その全ての基礎となっていると言っても過言ではない。ヘニガーさんに教えてもらった曲で、記憶に残っているのはショパンのノクターンや英雄ポロネーズである。
3.レオ・シロタ氏に師事
昭和9年始めになってからと思う。ヘニガー夫人から、「私の教える事はもうありません、ピアノの専門家であるレオ・シロタ氏を紹介しますから、これから先は同氏に教わってください。」とのこと。
レオ・シロタ氏の家は乃木坂の閑静な住宅街にあった。紹介状を持って訪問すると早速「テストをするから、なんでもよい弾いてみてください」と言うので、丁度覚えていたショパンの練習曲「黒鍵エチュード」を弾いたように覚えている。テストはOKで、「次の週から始めますから、この曲を練習して来て下さい」と聞いたことのない曲を8小節程弾いてくれたが、「ベートーベンのアンダンテ・イン・エフです」と英語でペラペラと一言これには閉口した。大急ぎで銀座の日本楽器店に行き、耳に残っていたメロデーを唯一の頼りにしながら、この曲を探した。幸いにもすぐ楽譜が見つかった。
この曲は、「アンダンテ・イン・エフ」と言う題名のベートーベンの曲であることを初めて知った。レオ・シロタ氏にピアノを習い始めた経緯は上記のとおりであるが、長続きはしなかった。大学の理工学部に進学するための勉強、そして夢中になっていたサッカーそれにピアノと言う三つの目標は、1日が24時問で有る限り、これをこなすことは物理的に出来ない相談である。当時の気持ちとしては1日30時間は欲しかった。又授業料は意外に高くヘニガー先生に交渉して項き、学生だからと言うことで安くしてもらったが、それでも尚1週1回、1回のレッスン30分で1ケ月の授業料がなんと30円だった。当時の初任給が70~80円だったから、いかに高かったかわかる。7月から夏休みに入るので、宿題としてベートーベンその他数曲の課題を与えられたが、浜松に帰って自宅のピアノを弾いている間に考え込んでしまい、9月上京する直前になってピアノはあくまで趣味としては残すが、専門的に習う事は辞めにしようと決心するに至った。
レオ・シロタ氏に教わった期間はほんの3か月位で習った主な曲は次の通りである。
1.Beethoven:Andante in F 2.Moszkowski Etincelles.
3.Chopin:Polonaise Op.71-2 4.Etc.
※レオ・シロタ 氏は、ウクライナ出身のユダヤ系ピアニストで、超絶技巧の持ち主で「リストの再来」とも呼ばれました。なお、レオ・シロタ 氏の娘がベアテ・シロタ・ゴードンさんです。両親とともに日本で成長し、戦後GHQ民政局の一員として来日し、日本国憲法へ女性の権利を明記することに尽力されました。 2005年には「ベアテの贈りもの」として映画化されています。
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4.ピアノは生涯の趣味に
中央会堂の長野氏に御世話になっている間は、幼稚園のアップライトピアノを好きなだけ弾にとが出来たが、大学1年生2学期になって正五と市ヶ谷の西さんと言う素人下宿に引っ越しをしてからは、ピアノが弾きたくなると、新宿の角筈にあった楽器店でピアノを時間借りして弾いていた。今から考えてみると良くそんな時間があったと思う。製図とか実験のある日を除いて、授業が終わると高田の馬場から電車で東伏見に行きサッカーの練習をやる。帰途新宿の楽器店に寄ってピアノを弾き下宿に帰るのは午後9時頃となる。
10時頃から勉強をするのである。夜2時、3時はおろか徹夜することもしばしばであった。良く続いたものと思う。
早稲田を卒業し、大阪の三菱商事機械部支部に勤務するようになってからは、ピアノが弾きたくなると、神戸の宮下みえ姉の所へ行って良く弾いたものである。また、大阪在職中にオール三菱のサッカーチームが編成されて、神戸の三菱電機のグランドで良く練習をしたものだが、その時知り合ったのが八巻直躬氏で、名古屋の野砲隊に入隊した時、八巻氏の紹介で知り合ったのが、当時三菱航空機名古屋製作所の副所長だった荘田泰三氏であった。同氏のようなお偉い方と知り合えたのもピアノのお陰と言ってもよい。私も随分心臓が強かったと思うが、ピアノ弾きたさの一念だったらしい。
荘田氏のお宅にはしばしばお邪魔してピアノを弾かせて貰った。そればかりではなく、晩の食事も何度か才卸馳走していただくなど、大いに歓待をうけたことが思い出に残っている。また、お隣に住んでおられた小室鉄夫氏が裏木戸から荘田氏宅に私にも聞かせてくださいと良くやって来られた。そして「荘田氏のとこだけでなく私の家にも是非来てください」といわれて何時の間にか小室氏のお宅にもお邪魔するようになってしまった。ピアノを弾かせて貰っただけではない、一度だけだったが泊めて項いたこともある。こんな次第で名古屋にいる間に荘田氏および小室氏の御家庭とはすっかり親しい間柄になってしまった。
フィリッピンに出征しバーターンの総攻撃に参加した時は、勿論ピアノどころではなかった。しかしミンダナオ島に移動して、カガヤンに1ケ月程滞在していた時だった。部隊が宿泊していたすぐ近くの民家から、ピアノの音が聞こえて来た。弾いていた曲はショパンの「Fantaisie-Impromptu Op.66」であった。どんな人が弾いていたのかは確かめもしなかったが、一生懸命に練習していたのが記憶に残っている。まさか戦場下にあって、しかもミンダナオの田舎町カガヤンでピアノの音それも好きだったショパンの幻想即興曲を耳にするとは夢にも思わなかった。
ダバオに滞在するようになってからは、しばしばピアノに触れる機会があった。良く出掛けたのはダバオでも可なり上流階級のフィリッピン人の家庭で、名前は忘れてしまったが、大勢の家族で3人の年ごろの娘さんがおり、ピアノを習っていたようだ。この家に良く遊びに行き、ピアノを弾かせて貰らった。また晩御飯を何度か御馳走になった記憶がある。17年暮れのクリスマスには招待を受けて、夜遅くまでダンスをしたりピアノを弾いたりして楽しく過ごしたことが思い出に残っている。
またこの家の奥さんは中々の社交家であり、何時だったかダバオに在住の女流ピアニストを紹介してくれた。これも名前は忘れてしまったが、一度彼女を訪ねたことがある。二階建のダバオでは可なり立派な家だったように思う。案内されたのは2階の大きな部屋でグランドピアノが置いてあった。私は覚えていたショパンの英雄ポロネーズを弾いたように思う。彼女は其に対して誰の作曲か知らないが「Japone」とか言う日本を意味する曲?を弾いてくれたのが記憶に残っている。
終戦後は、九品仏の加藤の家にしばらくいたので、その間は応接間に置いてあったピアノを好きな時に弾くことが出来た。また、終戦直後よく関西方面にサッカーのゲームに出場するため出掛けたが、当時夙川に住んでおられた八巻氏のお宅を訪問してピアノを弾かせて項いたことがしばしばある。一度夜中の12時頃まで4時間以上も弾きまくった記憶が残っている。しかし鵜の木の社宅に引っ越しをしてからは、ピアノとも大分疎遠になってしまったようだ。加藤の家に比較的近かったので時々は出掛けて行って弾いたものの、戦後の混乱期のため、毎日の食糧を如何にして手に入れるかの方が重要でピアノどころでは無くなっていた。
以下、省略
5.オルガンで我慢
6.ピアノを手に入れる
7.ピアノを買い換える
8.グランドピアノを買う
9.グランドピアノとの別れ
10.録音テープを整理する
一番右が加茂健さん 家族と一緒の写真