No.4 宗良親王ゆかりの愛宕神社、そして洞泉寺(浜松市天竜区阿寺)トップページへ戻る
2020.3.8

愛宕神社


十六弁の菊の紋章


愛宕神社の立派な厨子

大モミジのある洞泉寺とその上の愛宕神社については、「ふるさとものがたり 上阿多古の昔話百話」 (上阿多古草ぶえ会編集、昭和51年発行)という本の中で、興味深い記載がされています。以下に紹介させてください。


(前略)後醍醐天皇の第四皇子である宗良親王も、父君を助けて自らも戦いに参加されたのです。

北朝方(北条幕府)の戦力は、南朝方(後醍醐天皇)をはるかにしのぐもので、親王のひきいる軍勢は、敵軍に追われ追われ、この地(遠江地方)のあたりまで来られたのです。

 やがて頼みとする井伊谷城も、三獄・大平城も落ち、やむなく軍勢は、南朝方の味方の多い信濃方面へと下られました。その途中親王は、阿寺の鴨野の山中にある小出恷太夫(こいできゆうだゆう、明治の頃、岡田と改姓)という人の家に、一夜の宿をおとりになりました。

その際、親王は、戦乱の世の中、ご自身の命さえもあといくばくかと強くお感じになられたのでしょう。肌身離さず持っていられた、守り神である観音様をとり出され、小出恷太夫宅に預けられたのです。

 この大切な観音様を、洞泉寺の奥の院という形で、「愛宕神社」としておまつりしました。その宗良親王の守り神をご神体としてまつってある神社ということで、太平洋戦争中は、武運長久を願う人々の姿でにぎわったということです。それより以前は、猪鹿退治の神社としてまつられていました。山深い地ゆえ、大事な作物を荒されて、人々は困っていたのです。昔の事なので、ただ何事にもお祈りのみが、人々の救いとなっていたのです。

愛宕神社は、もっと山深い所にあったのですが、不便なので、現在の洞泉寺の裏山へ移されました。今のお社は、宝暦年間(二三〇年前)に再建されたものです。そのお社の屋根には、天皇家の御紋章である、十六弁の菊の紋章が輝いております。

「岩松山洞泉寺」は、上阿多古で最古の寺といわれ、今から約一千年くらい前、庭好きの裕福な人が建てたものではないかといわれ、臨済宗無文派、無文禅師の行宮ともいわれています。(最初は鴨野にあったが、後いつの頃か、阿寺の現在の地に移されたといわれる)そこには、日不見観音(ひみずかんのん)が祭られています。雨が降らないときこの観音様を日に照らすと、たちまち雨が降るといわれています。

これは宗良親王が置いていかれたものか、奥山方広寺を建てた弟の無文禅師の念じ仏かさだかではありません。阿寺を好んだ無文禅師ですが、方広寺を建てるとき、(寺を建てるには、条件がある)阿寺は峰の数とか谷の数とかが足りなくて条件にかなわず、また懐山(ふところやま)も適地ではなくヽ結局現在の地に奥山方広寺が建てられたのだと伝えられています。

洞泉寺は、何となく奥山方広寺を思わせる赤い屋根の形、山寺にしてはめすらしく立派な山門、その裏山には苔むした僧の石塔があり、字はさだかではないけれど、「再住方広洞泉凖………」と、書かれていて、やはり方広寺とのつながりを感じないわけにはいられません。

格式を持つ立派な寺なのですが、今は守る主もなく、ひどくさびれてもの悲しく思われます。奥の院に輝く十六弁の菊の御紋だけが、一段と威厳をたたえております。

※、この本は、上阿多古に住み小学校の低学年の子どもを持つ主婦6名が、家事の合間をみて地域の昔話を採集して、小学校長さんや教育委員会の指導を受け、約一年かけて作られました。上阿多古の年中行事、地名の由来、神社仏閣、民間伝承を173ページにわたって網羅しています。


洞泉寺全景

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