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No.8 
橋本宿の長者妙相と「長者妙相夢想造立記」 2022.1.28 2.23追記


1.応賀寺毘沙門天立像と「長者妙相夢想造立記」

 静岡県新居町に応賀寺という真言宗の古刹があります。神亀年間(724年〜)聖武天皇の勅願時として、行基菩薩により開基・草創されました。







薬師堂 撮影筆者

 静岡県内でも数少ない室町期造立の薬師堂(静岡県指定文化財)や、本尊薬師如来および宝物館収蔵の阿弥陀如来坐像・はじめ仏像約20体、軸物約50巻、美術工芸品約30点、多数の経典、古文書等があります。

 その中に、毘沙門天立像があります。鎌倉時代、文永7年(1270)、寄木造、玉眼、彩色。像高41.5cm。 像内より「長者妙相夢想造立記」と名付けられた造像記が発見されました。 伝説によると、橋本宿長者の娘、妙相(みょうそう)が上洛途中の源頼朝公に寵愛され、その後出家し妙相と名乗り、高野山よりこの毘沙門天を勧請し一寺を建立したとのことです。この毘沙門天立像は、【浜松市美術館】みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-2021/3/25-4/25にて展示されていました。



毘沙門天立像(静岡県指定文化財) 撮影筆者 ※みほとけのキセキ展にて、会場内撮影許可





 その像内より「長者妙相夢想造立記」と名付けられた願文(がんもん)が発見されています。

 「新居町史第三巻風土編」(新居町史編纂委員会 1989年)においては、この願文について以下のように記述しています。

 「応賀寺にある毘沙門天立像の胎内に納められていた願文である。この願文は、縱九センチ、横長に四メートル五五センチにつなぎ合わせた鳥の子紙に、一センチたらずの細字で書かれているものである。毘沙門天功徳経・毘沙門天像・毘沙門天種子・毘沙門天真言大精進如意宝珠真言・観音経・弥陀三尊立仏不動七観音の種子についで、長者妙相の夢想霊記と、後にこの毘沙門天王立像を小野末葉融弁が修理させた時のことを認めている。字体は古字・異字・略字・くずし字が少なく、行間に羅線はなく、紙高からつめて書かれている。文末には年号が銘記されており、像立の時期を知る好資料となっている。」

 願文では1270(文永7)年、橋本宿(現在の湖西市新居町浜名)の妙相(みょうそう)が夢のお告げにより発願、造像する旨が記されています。
 



長者妙相夢想造立記(静岡県指定文化財) 撮影筆者 ※みほとけのキセキ展にて、会場内撮影許可
 

長者妙相夢想造立記冒頭部分 「新居町史第三巻風土編」より引用 

①は国の異字、②は深の異字、(ママ)と付いているのは誤字のため「庄」が正しい。

 以下、口語訳(「新居町史第三巻風土編」より引用)

 「南閻浮堤(インドにある世界の中心である山で、すべての仏はこの山で誕生するという。)東隅豊葦原遠江国渕郡(敷知郡)黍(きび)庄笠子郷橋本の宿、長者妙相は、河内国石河郡(大阪府南河内郡太子町)におわす聖徳太子の御廟(叡福寺)に詣で、そこで貧道(僧の謙称)は、仏・法・僧をうやまい供養すべく誓願しましたが、仏法僧をうやまい、父母の恩にむくい、貧しきを救うに力が及びません。

 わが国の仏法は、もったいなくも聖徳太子の御廟にてお誓い申し上げるにより、救世観音の悲願が達成されると伝えききます。そこでここに弟子として妙相考えますのに、真実であやまりなき道理というものは、世間の道義なくして成りたたず、また世間の道義も誠の道によって成り立つものだと。まさに今、世俗の福がなく俗世をはなれることもできないのに、ほしいままに深重な願いをたてました。するとその夜のこと、夢のおつげがありました。

 それは、私の体にむかでが這いあがってくるので、これを箒で払いおとしたところ、再三むかでが寄ってきて、これを箒で払っていますと、聖人が現れておっしゃるに、これは毘沙門天から与えられた福であると。私は悟されましてこのむかでをふところに納めました。

 それから再び夢のお告げがありました。それは、婆祖仙人が来て云われるに、三州額田郡にある真福寺(愛知県岡崎市)の寂雲法橋のもとに行き済度してもらい、三十三文の銭と白米三斗を御布施してもらいなさいと云われたのでそれも果たしました。

 そして、同閏年九月二十二日の夜のこと、第三度目の夢のお告げがありました。それは、鞍馬寺の毘沙門天に詣でました夢で、毘沙門天王から 七十八文の大銅銭をおさずけ下゙さるとのお告げかあり、見るとそこに大銅銭がありました。これを取るとたちまち釜(かなえ)に変わったのでした。

 そして第四度目の夢のお告げでした。翌二十三日夜、あの毘沙門天像を作られた仏師が来られ、 くだものを一そなえして云われますのに、奥深き谷にある天子様の寺から給わってきたのだが、毘沙門天を汝が代々受けつぐようにと。

 そもそも、このように四度にも渡る夢のお告げは、私の願望をかなえて下゙さろうということであろうか、つくづくありがたく思い、毘沙門天像を作り祀って、尊像の胎内に、私の見た不思議な夢の状を記し、仏舎利二粒と自筆の観音経・毘沙門経・陀羅尼経などを添えて納めることにしました。多聞天・持国天・広目天・増長天の四大天王様、ならびに諸天善神様、どうぞ妙相の願望がかないますよう、ひたすらおねがいするものです。
 
 文永七年(一二七〇)庚午閏九月二十五日  妙相敬白」


 この願文について、応賀寺の住職 道家成弘さんはみほとけのキセキ展の関連の出張講座、「仏像入門講座」2021/2/26にて次のように語っています。浜松市美術館で仏像だらけの展覧会 「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-より、以下引用させてください。

 「応賀寺の毘沙門天立像には4mくらいある長い巻物が入っていたんですよ。そこには、毘沙門天立像が作られた経緯が書かれていました。巻物によると『妙相という橋本宿の長者が4度も夢を見たのがきっかけ』だったそうなんです。

 その巻物を願文(がんもん)といいます。前半は4mm〜5mmの細かい字でお経が書き連ねられています。その後に、仏像が作られた経緯や、後の時代の修理歴なども記載されております。この毘沙門天立像ですが、元々は紅葉寺(本学寺)というお寺の所蔵でしたが、そのお寺が荒廃していた頃に当山でお祀りするようになったものです。

 当山には、この仏像に関して源頼朝公の伝説が残っています。今は新居関所で有名な新居ですが、当時は関所はなく『橋本宿』という大層賑やかな大きな宿場町があったそうです。この宿場町に頼朝公が逗留された際に、橋本の長者の娘に恋をしたそうです。やがて、頼朝公がお亡くなりになった後、その娘は出家し、頼朝公を供養するために毘沙門天立像をつくり紅葉寺を建立したという話です。娘が出家した際の戒名が『妙相』と伝えられています。

 ただ、この話も諸説ありまして、伝説では長者の娘が妙相とされていますが、願文には長者本人が妙相という名だと記されております。頼朝公が逗留された年と願文に記された年に80年くらいの差があること、願文に一度も頼朝公の名が出てこないことを踏まえると、伝説の類ではないかなと。また、年代から頼朝公ではなくて四代将軍の頼経公だったのではという推測もされております。

 この妙相という人物ですが、詳細はあまりわかっておりません。ただ、高野山からこのような仏像を取り寄せてお寺を建てたり、三ヶ日の大福寺に病気平癒を祈願して普賢菩薩の仏画や歓喜天像(かんぎてんぞう)という仏像を奉納したという伝承もあり、大変力を持った人物だったのだろうと推測されます。妙相とは一体どんな人物だったのか。今回の展示は、そういった歴史のロマンを感じていただけたらと思います。」



2.妙相について、「新居町史 第三巻 風土編」記載


浜松市文化遺産デジタルアーカイブ 今切変遷図の7、鎌倉時代、浜名橋があった頃の浜名湖

上図拡大 橋本駅付近 「ヨリトモゴテン」との記載あり

 妙相と言う人物について、「新居町史 第三巻 風土編」では「妙相」という小項目を設けて、そこで以下のように考察しています。ここでは、その前半部分の概略を記載してみます。

〇冒頭で宝永四年(1707)の富永政愈「遠州今切御関所記」を引用。
「源頼朝卿、上洛の時(建久元年・一一九〇)、橋本駅に宿陣し給ふ。(中略)此時卿橋本に滞留し給ふ事、既に六日、此駅長が娘、美好嬋媚たるに依て、屢寵愛して、又供せんとの給ふ。駅長一女たるに依て、別れを深く歎ず、卿是を許容せしめ、橋本の向に屋敷を与へ、新に家を造しめ、数多の侍女を仕置守らしむ、其跡を云伝へて女屋と云。彼女は卿薨じ給ふと、貞節を守て尼となり、名を妙相と云、妙相が守本尊毘沙門天、中之郷応賀寺に有り。」

〇この毘沙門天は現在も応賀寺に安置されていて、胎内には妙相の願文が残されていた。この願文の終章には
「この夢相の状を記し、ならびに仏舎利二粒、自筆観音経・毘沙門経・陀羅尼等、像中に入れ、多門・持国等四天王ならびに諸天善神等にひたすらお願いして、妙相の願望成就円満を助け給えと云々 
文永七年(一二七〇)九月廿五日  妙柑敬白」
とある。この願文は客観的で、他人が綴ったものの様に筆者(「新居町史 第三巻 風土編」の担当部執筆者)は考える。「自筆観音経」の如く願文の前章の細字写経は妙相自筆のものと考えられるが、これも早々の結論は危険である。

〇文治元年(1185)頃、浜名の橋のたもとの橋本の宿駅は繁栄のきわみにあった。建久元年(1190)10月3日、源頼朝は1000人に及ぶ関東武士の大行列を従え、京都に向かって鎌倉を出発した。18日には橋本駅に一応の陣容をととのえるため、五、六日の滞留をしているが、その際大勢の遊女が訪れ、頼朝はじめ将兵らに贈り物をささげている。新居・橋本地方ではこの時の長者妙相と頼朝の出会いを長く伝えてきたのである。

〇しかし願文の年号文永七年は、頼朝上洛の建久元年(1190)から数えて八〇年の隔たりがある。長者の遺産を継ぎ、尼長者として財力具に橋本駅の権力者であった妙相の実在性には疑念なきものの、頼朝との関係については実証されないのである。

 以上、「新居町史 第三巻 風土編」でも、年代的に隔たりがあり妙相の実在は疑念ないが、頼朝との関係は実証されないとしています。

 ただし、「この願文は客観的で、他人が綴ったものの様に筆者は考える」という部分には、当ホームページ作者としては疑問を感じます。ムカデは毘沙門天の使いとは聞きますが、見た目にも恐ろしく、実際噛まれると激痛を伴うものであり、そのムカデが体に這い上がってくる話はかなり衝撃的です。そうしたおぞましい話をひょうひょうとするところに、この妙相と言う人のユニークさを私は感じます。


三ヶ日町大福寺 本堂 撮影筆者


大福寺 聚古館案内板 

 さて、、、「新居町史 第三巻 風土編」では、やはり真言宗の古刹、三ケ日の大福寺に残された妙相の寄進物、絹本著色普賢十羅刹女像図(けんぽんちゃくしょくふげんじゅうらせつにょぞうず、国指定重要文化財)、歓喜天(かんぎてん)像についても考察しています。以下、後半部分をそのまま引用させてください。なお、大福寺の宝物館の聚古館は撮影禁止なので映像をご覧いただけないのが残念です。

「ところで、三ヶ日町真言宗大福寺に妙相寄進物があることが古くから知られている。その宝物二件を拝観し橋本の長者妙相尼の解明に少し近ずいてみたい。

 一、普賢十羅刹女像図  妙相寄進(大福寺蔵)

 この普賢十羅刹女像図は、頼朝の愛妾妙相から寄進されたものと寺で伝えられているもので、正面に白象に乗った普賢菩薩を中心に薬王・勇施二菩薩(優美な女性の様)と十羅刹女を五人ずつ対象的に描いてある。上部に持国天・毘沙門天をおき、左右整然たる構成である。十羅刹女は十二単衣で合掌し、女人煩悩を巧みに描写表現し、すべて雲に乗る姿である。この絵画の変わっている点は、十羅刹が十二単衣の優美な女性であり、表情が一様でなく、女の苦悩の救済を願望している絵姿にある。長者の権力と財によって当代一級の絵師に描かせたものと思われる。

 この十羅刹女像図を天保三年(一八三二)快雅上人が江戸出府の際に、水野越前守忠邦が前々から大福寺の古笈の拝観を望んでいたので古笈及び普賢十羅刹女像図を持参した。ところが水野侯は勿論であるが、拝観した諸侯は普賢十羅刹女像の発散する異様な仏徳に感動した模様を上人が書いている。その際の絵師の繿定書には藤原信実と古士佐の二人らしいとているが決定的ではない。

 二、歓喜天  妙相寄進(大福寺蔵)

 厨子の扉を問くと内面の背景は金色さん然と輝き、象頭人身の男天魔王、女天の十一面化身の双自像がピッタリ寄り添っている。異様な雰囲気に包まれる名作像である。
  
 いずれにせよ、中世の長者の苦悩と財力・権力とが絡みあっている中世の橋本駅の代表的人物妙相がいたことだけはまちがいない。」

 この歓喜天とはなかなか異形の仏です。少し横にはこんな説明書きが置かれていました。

「歓喜天

密教における除災招福の神 歓喜自在の意、詳しくは大聖歓喜自在天、略して聖天と云う。インドでは知恵学問の神として崇拝されている。

二天が相抱擁している。一方の男天は暴虐をする荒神であるが、女天は十一面観音の化身としてしばらく男天の欲求に身をまかせつつ、やがて男天を佛法に導き入れようとする趣旨を表現している。

日本では『聖天様』と読んで商売繁盛の守り本尊となっている。」


読み:大聖歓喜天 だいしょうかんぎてん、聖天 しょうてん 
※コトバンクより 天部とは、仏教の尊像の4区分 (如来,菩薩,明王,天) の第4番目にあたるもので,諸天部ともいう。インド古来の神が天と訳されて仏教に取入れられ、護法神となったもの。

 静岡県指定文化財二つ、さらには国指定の重要文化財、そして異様な雰囲気の秘仏を寄贈した妙相という人の財力と意欲にますます興味が惹かれます。


3.妙相について、「捨聖 一遍」記載
 
 

 ここで、「捨聖 一遍」今井雅晴(筑波大学名誉教授、真宗文化センター所長)著の中で妙相のことが触れられているので紹介させてください。知り合いの方から教えていただきました。

 「毘沙門天から夢告を得た徳人というのは、中世の記録によく現われる有徳人のことで、経済力の豊かな人のことである。それは商人であることが多い。毘沙門天は仏教の修行者を守り(仏法守護)、また人々を経済的に豊かにする(福徳施与)という二つ誓願を持っている。このうち、特に後者に関する信仰が室町時代から江戸時代にかけて盛んになる。毘沙門天を信仰してお金持ちになろうということである。

 鎌倉時代後期ではこの福徳施与についての信仰はいまだ盛んになってはいないのだが、萱津の宿の徳人たちはすでにそれを持っていたのである。

 そういえば文永七年(一二七○)、遠江国の橋本の宿の長者妙相は毘沙門天に対する信仰のあまり、毘沙門天像を造立して近隣の応賀寺に寄進している。橋本の宿は現在の静岡県浜名郡新居町浜名である。長者というのは、遊女宿の主人であり、長者自身も遊女である。豊かな経済力を有していることが多い。有徳人である。東海地方は比較的早く毘沙門天の福徳施与に対する期待と信仰が高まった地域ということができようか。」

※萱津の宿とは、今の愛知県海部郡甚目寺町上萱津・中萱津・下萱津と名古屋市中村区東宿の地

 この記載は、妙相さんの人物像を考えるにあたり大いに参考になるものと思いました。ただし、「長者というのは、遊女宿の主人であり、長者自身も元遊女である。」と考えると、辛苦をくぐりぬけて財を得た女性と考えられ、妙相の寄進した諸仏にふさわしいのではと私には思えました。

 こうして、一通り関連の資料を読み進めて来て、もう一度願文を見返してみると、、、この願文は、ひたすら一生懸命書かれていると思いました。決して流麗な字体、達筆ではない。時に誤字もあるよう。そして書かれた夢の中身は突拍子であるが、かなり具体的でもあり、、、そこからは、いにしえの時代に生きた、ひとりの人間が一心に祈るその想いが、感じられるような気がしました。

 空想、妄想の世界かもしれませんが、こうしたことも考えながら郷土の歴史に分け入っていくのも楽しいかなと思っています。


4.普賢十羅刹女像と女性の信仰について2.23追記

 普賢十羅刹女像と女性の信仰について、私が調べた中では、金沢美術工芸大学の1998年卒業研究論文要旨、田辺 恵美さんの「普賢十羅刹女像の変遷─和装本の考察─」の冒頭部分が分かり易くまとめておられたので引用させてください。

「 普賢十羅刹女像は、平安時代の十二世紀前半から南北朝時代にあたる十四世紀後半まで、主に追善供養に際して描かれた仏画で、現在二十一幅が確認されている。その図様は、画面中央に六牙を生やした白象に合掌して坐す普賢菩薩を描き、その周囲に十羅刹女と称される十人の女性像を配するもので、多くの遺例は、虚空に浮かぶ湧雲上に薬王・勇施の二菩薩と昆沙門・持国の二天、そして鬼子母や持幡童子を加えて一図を成している。羅刹女は、仏教では一般に人を食う鬼女をいうが、十羅刹女の所依の経典である法華経には、法華経の守護善神として登場し、二菩薩二天に続いて鬼子母と共に釈迦のもとに現れ法華経の受持者を守護すると誓う。一方の普賢菩薩も同経典中の別の箇所に同じ功徳が説かれている。従って、この仏画は一般に、普賢菩薩を中尊に十羅刹女以下の諸尊を眷属として法華経の信仰者の守護を祈念して造顕されたものとみなされている。

 この仏画の大きな特徴の一つは、十羅刹女を美しく正装した女性像に描く点である。十羅刹女の形姿には、唐装と和装の二様が認められる。和装とは、つまり十二単を着た女房姿に描いたものをいう。十羅刹女を女房姿に描いた和装本は、鎌倉初期の作といわれる日野原本(個人所蔵)と鎌倉末期の作と考えられている東京芸術大学本や奈良国立博物館本などを合わせ、現在六例が確認できる。これらの和装本は、厳めしい仏画の多い中にあって異彩を放ち、絵巻物の如く艶麗な画趣を湛えている。しかし、女房姿の十羅刹女が、独鈷杵や宝剣といった法具の武器を手に執り、遺例によっては普賢菩薩を守護するように立ち回り袖を振る様は、画面に一種緊迫した印象を与え、いささか穏やかならぬ風情も感じさせる。

 このような和装本の成立に関して従来の研究は、女性たちが亡き故人の追善供養に十羅刹女を自身の姿になぞらえたものとし、「女性の信仰」という枠組みの中に位置づけてきた。「女性の信仰」とは、法華経に説かれる竜女成仏の典拠に基づき、中世の仏教が女性の成仏に「五障三従」という非常に困難な障害を設ける一方、信仰次第では成仏できると女性たちに法華経の受持や書写を奨励した事情を背景に持つ。平安時代の文献上の造顕例からも普賢十羅刹女像が高貴な女性たちの間で受容された仏画であったのは確かと思われる。」



写真 奈良国立博物館開催特別展「女性と仏教 いのりとほほえみ」図録2003年 表紙
    奈良国立博物館所蔵 普賢十羅刹女像図(部分)

 大福寺の普賢十羅刹女像図は和装ですが、平成15(2003)年奈良国立博物館で開催された特別展「女性と仏教 いのりとほほえみ」の図録において、梶谷亮治氏は次のように述べています。「美しい和装の十羅刹女像と、宋風著しい普賢菩薩を組み合わせた異例の図像である。」「より、本尊的な表現を強調した、普賢十羅刹女像図の一例として貴重である。」とその美術史的価値を評価しています。

 橋本宿をはじめとした遠江周辺の女性たちが、普賢十羅刹女像図を前にして亡き故人の追善供養をしていた。そして、その女性たちは信仰により成仏することを願っていた。そんな可能性はないかと、私は空想を働かせています。妙相が寄進したと言われる大福寺の普賢十羅刹女像図は、鎌倉時代後期の頃に地方の女性たちが仏教の信仰を集団的にしていたことを、文化財として示すと言う歴史的価値もあるのではないかと思っています。

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