No.2 細江神社、松島授三郎翁碑と三遠農学社トップページへ戻る
2020.2.8

三遠農学社とは

 浜松市北区細江町にある細江神社の境内、西出入り口の横に二つの石碑が立っています。初詣の時、私の息子が石碑に西郷従道の名前が入っていることに気づきました。それをきっかけに調べていくと、三遠農学社長松島授三郎翁の紀徳碑であり、「錬精翁の碑」は建立時内務大臣だった西郷従道による揮毫であることがわかりました。遠州地方の先人たちの先進的な活動に感銘を受けたので紹介します。







 「三遠農學社長松島翁紀徳碑 内務大臣海軍大将正二位勳一等功二級侯爵西郷従道篆額」と読めます。


 「松島練精翁為三遠農學社長言行誠篤利被於衆逅歿壯員胥議表之命工伐石請予爲文翁名授三郎練精其号又至誠軒、、、」などと読めます。字も文も難解なので、松島授三郎翁と三遠農学社のことは「細江のあゆみ」より引用させていただきます。

「細江のあゆみ 第五号」(昭和三十五年一月五日発行 細江町資料調査会)46-49ページ「三遠農学社」の記述より引用


 八幡神社のすぐ西に立派な石碑が二本立ている。これ松島授三郎翁と平井重蔵翁の顕彰裨である。これを読むと三遠農学社創立のことが大体わかる。

 即ち三遠農学社は始め伊平村の野末九八郎氏と松島授三郎氏が村人の堕落を防ぐ為にはじめたもので、当時薬局を営んでいた松鳥氏の長屋に附近の若者を集めて勉学を進めたものである。然し博打にこりだした村の青年達はなかなかよってこない。そこで御飯を出したり金品を与えたりして一人集め二人集めて農学の勉強にいそしませた。戸長山本氏の助力もあってだんだん人が集るようになった。

 明治十二年農学誠報社と名付けて一応の結社が出来たらしい。その内に郡長松島吉平氏も後援してくれるようになって気賀や奥山に支社が出来、趣旨に賛同する人達が各地から集るようになった。この頃報徳思想も普及して浜松の安居院荘七・浅田勇次郎先生等がさかんにこられて之等の人々の指導にあたった。

 明治十五年西遠農学社と改称して野末九八郎氏が社長になった。入社届だけで会費もいらず、その上会合に出席すれば昼食(赤飯にタクワン二切)が出る。お互に農事の研究発表も出来るし各地のうわさ話もきける。当時の農村人には誠に気楽で集りやすい会合であった。近くの農民は軒並に入社してくる遠い郡外からもたづねてくる人も出来る。ようやく活気に満ちた会合にまで発展した。

 そこで郡の中心部である気賀町へ本社を移すことになり郡長松島吉平氏の世話で細江神社内の建物をゆずりうけたのである。

 明治十八年四月三遠農学社と改めて松島授三郎氏が社長になった。その頃の記録によるともう二千人以上の社員になっている。毎月十三日の例会には朝早くから社員が集っていろいろの研究談に花をさかせたそうである。四月十三日と十月十三日には大会があって、その時には三百人から多い時には千人以上の人々が集って大変なにぎわいであったらしい。

明治二十七年には気賀の八剣地内ヘ一反位の試作場をつくつて平井氏が担当して各種稲作法や新しい農機具等の使用法も研究した。幹部は腰弁当でどこへも気軽るに講演や見学に出掛け、本社の運営もすべてが奉仕と寄附でまかなわれていた。

 明治三十一年の記録によると西駿支社、東三支社、中遠支社、西遠支社、宝飯分社等の名前がのせられているから実に広い範囲にまで及んだものである。

 大正のはじめ本社の事務を中遠支社に移してからだんだんこの建物での会合は少くなつったので自然にさびれていつたようである。

 三農学社の盛事は全国的にも珍しいものであろう。この頃の農村人は誠に気力に満ちたものである。これは単なる偶然の盛事であろうか。現代人はよく考えねばならないことである。次に三遠農学社主義を載せて其の資料に供する。


三遠農学社主義

人の此の世に生息するは各々其の分に応じて自由を求め、幸福を祈り、安楽世界に住居することを望むものなり。而(しこう)して其の望みを全うするの道を(もと)、身を修め業を務めて子孫の繁栄ならんことを希望するは人の天性進んで止まざるの通情なり。而して其の望みを得ざるは広き天地の間に居ながら自ら束縛せられたるが如く人類の快楽を全うするを得ず。是、人の憂いの最も甚だしきものなり。其の憂いを去り其の希望を達するは人智を開き家を富ますに非ざれば是を全うするを得ず。

その富を求むるに天地に向って求めんか、人に向って求めんか、夫れ人に向って決して求めず必ずや造花の無尽蔵に向って之を求む。

是此の本社の大主義なり。

 (ここ)我が三遠農学社を開設するもの、農事の精理を探り、互に智識を交換し、己を利し、国を益し専ら経世の事務を諮詢(しじゅん)するにあり。而して天下の事業大別すれば二種となる。則ち、心を労するものと身を労するものなり。方今(ほうこん)心を労する社会には愛国の議論盛んなるも身を労する社会の振るわざるが故に富国の術全からず、是を全うせんが為に此の社を開くものなり。且(かつ)富国とは全国の事にして我が事に非ずと誤想する勿(なか)れ。国、人相互の便利を計り共同の福利を得るを富国と謂(いう)なり。人々の貪富を問わず此の社に進んで共同の福利を得べし。然れども自然富める者は自ら足れりとして怠るなきを保せず、又富者は財産の維持保護を国に受けること貧者よりも厚し、故に国に尽すの義務も亦随(したが)って重し、深く思わざるべからず。凡(みな)富者、財産の相続を只管(ひたすら)に金力にのみ依頼して子孫に譲るは太(た)た危し必ず道理を添えて譲るべし。本社は道理を談話研究する所なり。竊(ひそ)かに惟(おもん)みるに国力万国と対立するの力足らざれば全国の不幸なり。之を危急の秋と謂わざるを得ず。因って人民亦之を償うの義務を負担せざる可からず。退(しりぞ)いて囚循(いんじゅん)せんか、寧(むし)ろ進んで是を償うの術を諜らん歟()進んで国に尽すべきは当然の通義なり。富者進んで貧者と和し此の社を盛大ならしめよ。

 我が日本全国の地位は四方海にして、運送の便といい土地豊饒といい富を以て万国に誇るに至るも困難の事に非ざるべし。而して全国営業数多の内尤(もっと)も大数なるは農人にして全国貧富の権を預かるものの如し。故に人々報国の義心を奮発して各々国家を富まし愉快安楽に身を修め、子孫の繁栄を計ることを希望す。如此(かくのごとく)論ずれば妄(もう)に奮発躍進して国の為に我が労苦を増すものなりと誤解さること勿れ。農会の利益たるは譬(たとえ)ば村中利益の為に道を作り、棒にて担いしものを車に換ゆれば凡(みな)四人の力を増し身体の労大いに減ずれば楽しんで倦まず、其の工業の入費は千円なるも千人にて出金すれば壱円の金を以て千円の道路を買うが如し。全国を以て論ずるも亦同じ道理ならずや。玆(ここ)に農事の大目的を定める談話に当り甲、乙二論に分れ、甲は理学者にて農事は天地の関かる所にして人は其の伝守なり。天地の性質を測算せざれば其の伝守たるの職を尽すことを如何(いかん)せんと謂い、乙は腕力者にて農事は人のなす処、天地は古今替わらぬ天地なりといわば目的は大いに懸隔せり。

 天下の輿論は本末、始終、軽重、是非等を有形無形の間に正しく平均順序を得る為改め進むが如きのみなるを、乙者の如く本末を正さざれば生涯障子に蚋(ぶよ)の苦しみなきを保せず。世間に目的を誤り不幸に陥る人少なからず、人智の優劣は限りなきものなり。然るに千人会して知識を交換すれば千人の知識一人の所有となる。夫(それ)如此(かくのごとく)手段は労苦に非ずして安楽の種なり。

農会は譬(たとえ)ば全国開闢以来天地の間に捨てある物を拾うの会なり。其の捨てたる物目を以て見るべからす、道、物を以って見るものなり。故に衆人会して得業及び知識を交換し道理のある処を探り索(もと)めて是に囚(よ)って見る時は始めて目前に宝の山のあるを見るなり。是ぞ天下の人の争って希望する安楽世界の至宝なり。冀(こいねがわ)くば有志の諸士、来会入社して其の資宝を取り、我が家の所有となし、幸福の本源を固(かと)うし、報国の義心を振起し国家の安寧を計り富を以て万国に誇り、我が家を安全にし子孫の永続を計られんことを、此の事難きにあらず。

 我が労力社会よ、労苦を去って安楽に就かん事を欲思(しよく)し、進んで知識を交換し、極楽世界の市場繁盛ならんことを希望す。

※( )読み仮名は筆者加筆

なお、「日本近代思想体系20 家と村」岩波書店 173ページの解題によれば以下のように書かれています。

三遠農学社主義について、「三遠農学社の主意書とのこと。同社は、遠江国引佐・敷地・長上郡及び三河国八名郡の篤農家を中心に広く自作農を社員として構成された勧農結社である。」と。また、「二十四年の社員は、遠江・三河を中心に、伊勢・伊豆・相模・甲斐・信濃・駿河・美濃・尾張・越前・肥後・佐渡・土佐・岩代の十五か国、約2800人に上った。」記述しています。


三遠農学社事所銅板画 浜松市立中央図書館所蔵 許可を得て掲載


遠主義

「遠州報徳の夜明け」(西遠連合報徳社)108-109ページでは松島が「三遠主義」を主張したことを記述しています。


因みに三遠主義とは、思想は高遠に知識は深遠に、行為は宏遠にと主張するが是れ三遠主義なり。
  思想は高遠に
思想は高き低きの別あり。目前の事に囚(とら)はれ居る者と、遠きを慮(おもんばか)る者とは違ひあり。吾等は高尚なる思想を持ち遠きを慮るの心懸なかるべからずと主張す。
  知識は深遠に
知識には浅きと深きの別あり。今日の出来事のみ知りて将来を知らざるもあり、吾等は深き知識と将来を貫く知識とを得んことを主張す。
  行為は宏遠に
人の行為に一時的と永久的とあり。当座を糊塗する仕事と功徳を永遠に致すとあり。吾等は範を永久に垂れ功を永遠に樹つることを主張す。

三遠主義は吾輩の独有すべきものに非ず。凡(あら)ゆる人の奉持すべき主義なり。故に吾輩は此の主義を以て終始し、此の主義によりて活動し、此の主義に殉ずる者は皆吾徙の士なりと信ず。敢て我が冀求(ききゅう)を述べて勧む。   
    
※( )読み仮名は筆者加筆


石碑の裏面には一段40名、17段もの賛同者の名前が彫られていました。スぺースもあったり、地名も書かれていますが、600名以上の方々によるものと思われます。


追伸2020.2.11

 三遠農学社主義は、難解ですが、意味深い言葉がたくさんちりばめられています。「其の工業の入費は千円なるも千人にて出金すれば壱円の金を以て千円の道路を買うが如し。」千人会して知識を交換すれば千人の知識一人の所有となる。」 協働すること、そして知識や有益な情報を共有することの素晴らしさを分かり易い例えで教えてくれます。

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