No.3 森町、中村和三郎と帝国農家一致協会トップページへ戻る
2020.3.8

帝国農家一致協会とは

 静岡県周智郡森町にある森町歴史民俗資料館を昨年の夏、私の息子と二人で見学した折、二人とも興味をひかれたのが中村和三郎と帝国農家一致協会の展示でした。帝国農家一致協会とは、戦前の一時期全国的に大きな影響力を持った農業家の全国組織で森町に事務所がありました。今回は中村和三郎と帝国農家一致協会の紹介をします。


 
 
中村和三郎は元治元年(18964)周智郡堀之内村に中村久七郎の長男として生まれ、小学校卒後医師斎藤賢哉(堀之内村の医師、漢方・内科)に修業したとのこと。その後、周智郡勧業課職員となり、明治22年(1889)6月18日には初代気田村村長になっています。

 その一方、北周報徳社設立、北遠農会設立にも関わり、明治22年(1889)気田村にて帝国農家一致団結を設立し事務弁理に就任しています。その団体の会の「農談」第一号発行は同年4月2日とのことです。

 和三郎は気田村村長は同年12月16日には辞しています。村長という立場から民間の農事団体代表への転進にあたっては強い決意があったようです。
 
 以上「近代農業の先駆者 中村和三郎と帝国農家一致協会の活動」(森町立図書館所蔵文書、高木敬雄さん作成)を参照し要約しました。


以下、帝国農家一致協会の紹介をします。画像は森町教育委員会の了承を得ての掲載です。


 1880年代中葉、世にいう老農たちが集まって種子交換・肥料効用・蚕種紹介など農事の改良進歩を図るため、有志農家の「精神的二団結」を強調し、1889年(明治22)、帝国農家一致結合なる団体を結成した。

 当初は犬居村(旧春野町)に事務所を置き、同年、「政談」第1号を発行した。1891年憲範規律を定め、1895年事務所を森町に移した(仮事務所は梅林院)。そして翌年、森町に総集会を開き憲範を改正し会頭・総裁を設け、会名を帝国農家一致協会と改称し、森町に事務所新築の方針を決定した。 1897年、会頭に鹿嶋則文、総裁に賀陽宮を迎え、1899年、事務所建設に着手し、1900年完成、翌年移転した。

 この間、同盟員は20名からスタートし(1889年)、翌年には200人ほどに発展した。皇族を総裁に迎え、徽章を会員に配布するというスタイルを採用すると急激に増加し、1896年には1万人を越え、1901年には2万2000人を数えた。また1895年には「農談」の外に「餘畦」という雑誌を発行した。ついで1901年、森町移転の契機として雑誌「農談」を「大農団」と改称し、新たな飛躍のスタートをきった。

との記述です。





 その後、帝国農家一致協会は明治38年(1905)事務所を東京へ移転しましたが、翌39年(1906)には分裂するとともにその後には衰退してしまいました。そのため、現在ではその存在は一部の人にしか知られていません。

 しかし、この帝国農家一致協会の全国への影響は大きいものがあり、例えば、鳥取の中井太一郎と言う人は帝国農家一致団結の段階から会員になっていて、会員活動の成果を鳥取での農業技術の前進に活かしていきました。
 参照:webページ中井太一郎を大河ドラマに! また出版物で「老農・中井太一郎と農民たちの近代」があります。
 
 帝国農家一致協会は全国に広がる農業家の組織になった。その創立をしたのが遠州地方の人たちであったということを覚えておきたいと思います。

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