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No.7 いにしえの戦火から守られた摩訶耶寺千手観音像
2021.5.21



 
浜松市北区三ケ日町摩訶耶の摩訶耶寺について、大乗山宝池院 摩訶耶寺ホームページでは以下のように記載されています。

「摩訶耶寺は、神亀3年(726) 行基によって新達寺として開創されました。

 富幕山に開創された新達寺は平安時代に千頭ヶ峯の観音岩と呼ばれる場所に移り名を真萱寺へと変え、やがてマカヤ寺と呼ばれるようになり、平安時代末期に一条天皇の勅願により今の場所へと移りました。

 御本尊の厄除正観世音菩薩(秘仏)は奈良時代から今日まで、度重なる兵火・天災から僧たちによって守られ、受け継がれています。

 摩訶耶寺は古くから厄除けの寺として知られ、袋井の法多山、祝田の善明寺の観音様と三姉妹観音で、その長女が摩訶耶寺の御本尊なのです。

 庭園は平安末期から鎌倉初期の日本の中世庭園を代表するもので、座視鑑賞式池泉庭です。

 不動明王像(平安時代末期の作)と千手観音像(藤原時代初期の作)は国の重要文化財に指定され、また阿弥陀如来像(平安時代末期の作)は県の重要文化財に指定されています。」

三ケ日町史では摩訶耶寺所蔵の重要文化財について次のものを挙げています。

一、本尊秘仏厄除観音   一軀
一、木造千手観音立像   一軀 国指定重要文化財 藤原期
一、木造不動明王立像   一軀 国指定重要文化財 鎌倉期
一、木造阿弥陀如来座像  一軀 静岡県指定重要文化財 藤原期
一、木造金剛力士立像   一軀 静岡県指定重要文化財 藤原期
一、木造持国天立像     一軀
一、摩訶耶寺庭園  池泉観照式蓬莱庭園 三ケ日町指定文化財 鎌倉初期 ※1977/3/18静岡県指定名勝

 摩訶耶寺の千手観音像は修復のため令和2年5月20日に搬出され、修復後、令和3年3月25日~4月25日まで浜松市美術館にて、「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」にて展示されました。私もこの展覧会に足を運び、この千手観音像の実物を見て強い感銘を受けました。また、この展示においては撮影が許可されていましたので、映像をこのページにて紹介させていただきます。

3枚ともクリックすると拡大画像に





「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」図録より、作品解説を引用させてください。


◎千手観音立像
 一躯
 木造、彩色
 像高152.4
 平安時代中期・十世紀
 摩訶耶寺

 頭上に髪の毛を束ね(髻)、その上に頂上仏面を彫り出す。天冠台を彫り出し、その上に頭上面を戴く。眉間には白い円形の突起(白毫相)が見られる。耳たぶ(耳朶)は環状とせず、耳には三本の筋(三道)を彫り出している。条帛・天衣をかけ、裙、腰布をまとう。第一手は臂を曲げて合掌するが、上膊は本体と共木で彫り出しており、左上膊には花型の飾り(臂釧)が確認できる。第二手を腹前で重ねて宝鉢(亡失)を持つ。脇手は前列が六、中列が七、後列が六あり、第一・二手を合わせた四十二臂像で、倍率を含めた各腕にも飾り(腕釧)を彫り出す。

 頭体幹部をカヤと思われる一材から彫り出している。当初は台座の一部を含めて同一の材で丸彫りされていた可能性もある。(現在の台座は江戸時代の後補。)頭体幹部内側に刳りは施していない。ふっくらとした顔の表情も相まって、全体として重量を感じさせる。頂上の仏面は、頭体幹部と一材で彫出されており、貴重である。頭上面は矧ぎ付け、やや短めの脇手は別材である。足先は後補だが、左右で甲の肉付きや指の表現が異なり、矧ぎ寄せられた時代が異なる可能性がある。像全体の彩色はほとんど剥落しているが、唇と左脇手下の体幹部側面に朱色の彩色が確認できる。左脇手前列最下部の掌に目が描かれた痕跡を確認することができる。
 
 やや形式化しているが、九世紀から十世紀にかけて流行する翻波式衣文が足元に見られ、像の構造が内刳りを施さない一木造りである点からも、遠州・三河地方に残る数少ない平安時代中期の作例として貴重である。」
※「みほとけのキセキ-遠州・三河の寺宝展-」図録より、左脇手前列最下部の掌

※ふるさと静岡県文化財写真集 第3巻 記載によれば、脇手張り最大(左右の脇手の端から端までの一番長い距離)は91.4cm。 


 後日、摩訶耶寺を訪問して拝観した際、地元の案内ボランティアの女性から次のようなお話を聞きました。「昔から私たち地元の人たちにも大切にされ、幾度かの危機を乗り越えてきた大切な宝物です。武田信玄が三方ヶ原の戦いの後、三河に行くとき、摩訶耶寺と大福寺は焼き討ちに会いました。その時、地元の人たちが、どうやって運んだんでしょうか?みんなで力を合わせて、お救いしたと聞いています。」と。


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